びはんからこんにちは

山田小学校で震災学習の講演をしてきました。

社長の間瀬慶蔵です。

11年目の3.11がやってきました。
今日は、山田小学校で震災学習の講演をしてきました。

小学校6年生の生徒が、その時1歳。
1年生は、もちろん、まだ産まれていません。
という年代です。

講演後の質問では、「火災はいつまで続いたんですか?」「津波はいつおさまったんですか?」と、震災を全く知らないんだなと感じさせる質問ばかりでした。
そんな子供たちのために、3月11日に震災を経験した方々からの講演を毎年開催しているようです。
いい取り組みですね。

びはんオール店では毎年恒例の避難訓練をしました。
黙とう後の沈黙は、毎年、込み上げるものがあります。

(写真は、今日の御蔵山からオランダ島方面を撮った写真です)

─── 以下、講演の内容 ───


こんにちは。
びはんの社長の間瀬慶蔵です。
よろしくお願いします。

今から11年前の今日、東日本大震災がありました。
私はそのとき33歳。
奥さんと子供3人で駅の裏で暮らしていました。
子供たちは、ここの校舎に通っていた小学1年生の娘。
第一保育所に通っていた5歳の息子、家には、奥さんと2歳の息子がいました。

午後2時46分に大きな揺れが起こりました。
だいたいその20分後くらいに大きな津波がきました。
当時は、今のツルハの所が、びはんでした。
今の場所、オール店に移ったのは6年前です。
オール店に移る前は、プラザ店という名前でスーパーを営業していました。

地震が来た時、プラザ店の2階の事務所にいました。
あわてて、階段を降り、1階の売場に行くと、すでにお客さまは店外に避難していました。

実は、その2日前の3月9日にも、大きな地震がありました。
その時も店内放送で避難を呼びかけ、階段を降り売場に行きましたが、だれも避難している人はいませんでした。
それほど、本能的に、命の危険を感じるほどの、危険な危険な揺れでした。

私は、石垣をよじ登り、隣の御蔵山に避難しました。
小学校時代に、その石垣を登って遊んだ経験が役立ちました。
御蔵山から、堤防を越えて流れてくる津波、押し寄せてくる家、それに追われ避難している人、津波に飲まれるプラザ店、人々の「ああああ〜」という落胆の声、流される車、いのちの危険を感じながら、御蔵山の石垣、上から3段目くらいまで押し寄せてくる波を見ていました。

このときに見た波が、第1波と思い、次に来る第2波は、きっと、御蔵山をも飲み込んでしまうと思いました。
御蔵山に避難した近隣の住民が、約30人ほどいました。

私は、「もっと高台に、役場まで逃げましょう」と、声をかけました。
まだ海水が引いていない中、腰まで海水につかりながら、役場までジャブジャブと何人かで、避難しました。

役場の高さも、ほとんど御蔵山と変わらないように見えたので、その上の八幡神社の山まで避難し、林の隙間から見える海をじっと見ていました。
引いて、寄せる波の高さが、ここまで来ないと判断し、いちばん心配だった、家族の安否を確認しに、山田駅の裏手にあった自宅に向かいました。
津波が来たあとは、流され壊された家々で道路が通れなくなっていました。

自宅へ向かう途中、ここまで津波が来ているのなら、自宅は流されているだろうなと、見なくてもわかりました。
近くまで行きましたが、自宅の場所までは、ガレキの山にはばまれて、行くことはできませんでした。

近くで、流されて動けなくなっていた、おじいさんを何人かで助けました。
おじいさんを助けているすぐそばで、小さな火が燃えていることに気が付きました。
その時は、気にとめることもなく、「津波で水にぬれているからすぐ消えるだろう」
それよりも家族のほうが心配だと、小さな火を放っておきました。
その火が、大火事になるとは思ってもいませんでした。

自宅が流されたことを知り、きっと、自宅にいた奥さんと一番下の子は、上の子が通う南小学校へ避難しているに違いないと思い、小学校へ向かいました。
小学校へ着くと、先生と生徒たちがいました。

先生にウチの子はどこにいるか聞きました。
先生は、「奥さんと一緒に、もっと上の、自衛隊の官舎の方へ避難した。」と教えてくれました。
それを聞き、すぐに向かいました。

道路を歩いていると、奥さんと上の子、下の子と会うことができました。
家族が生きていることの安心感。
その時の感情は、今思えば、合格発表の時のような、不安がいっきに解消された気分でした。

家族との再会の喜びをかみしめることもなく、奥さんと子供2人にお別れし、すぐさま町の中へ向かいました。
第一保育所に通う真ん中の子、そして、プラザ店の横にある実家に住む、私の両親、おじいちゃん、おばあちゃん、妹の安否が心配でした。

がれきを乗り越え、先に実家にたどり着きました。
実家は、1階の私の肩の高さ位まで水が入った跡がありました。

「おか〜さ〜ん!!」って叫んだのかなぁ、

返事がありました。

驚いたことに、まだ、だれも避難していませんでした。

おじいちゃんは、いつも座っていた椅子に座ったまま流され、おばあちゃんは、寝たきりだったので、津波がきても、マットレスごと水に浮いて、濡れることはなかったようです。
そのあと、お母さんと、妹が、おじいちゃん、おばあちゃんを2階に連れていき、4人で2階にいました。

「ここにいたら、危険」と言って、4人に役場まで行こうと言いました。
お母さんと妹は、歩けないおじいちゃんの肩を持ち、私は、寝たきりのおばあちゃんを背負い、がれきの中を役場まで5人で向かいました。
公民館横のコミュニティセンターが避難所になっていて、そこに4人避難しました。

私のお父さん以外の無事が確認できました。
お父さんは、行動範囲が広いので、ひょっとしたら、津波に流されているかもしれない…。と思いながら、先に第一保育所に行って真ん中の子の安否を確認に行くことにしました。

もう、すでに日は落ちて暗くなりかけていました。

第一保育所に着くと、普段、子供たちがお昼寝をするホールまで、津波とガレキが来ていました。

私は、「まさか!!!」と、恐ろしくなりました。
人がだれもいなかったので、呆然としました。

付近の人から、もっと上の善慶寺にみんなで避難したと聞きました。
安堵しました。

私はすぐに、龍昌寺のお墓の道を歩き、その奥の、上の方にある、善慶寺に向かいました。
このお墓の道も、小学校の頃、毎年夏になると子供会で肝試しをして遊んだお墓の道です。
暗くなっていてもお墓の道は怖くありませんでした。

善慶寺にたどりつきました。
言われた通り、子供たち、先生、避難してきた人がたくさんいました。

「先生、うちの子は!!?」

ようやく会えて、5歳の息子を抱きしめました。
今、この子は4月から高校2年生です。
大きくなりました。

その日の夜は善慶寺で、息子とぴったりくっつきながら、夜を過ごしましたが、「ドーン」という爆発音に震えるお寺の窓ガラス、「赤く明るくなっている夜空」が気になり、息子を置いて、役場まで様子を見にきました。

そこで見た光景は、まさに火の海でした。

見慣れた町が、近所が、赤く、熱く、燃えていました。

プロパンガスのボンベが、「ドーーーーン」という音をたて、至る所で大きく爆発していました。

不思議と、悲しい気持ちは全く起きず、私の心も「メラメラ」と燃えておりました。
これが、私の3月11日です。

その後、私のお父さんは、驚いたことに、堤防まで津波を見に行っていて、津波に頭まで飲み込まれたようですが、奇跡的に助かり、公民館の小ホールに避難していました。
2日後に、会うことができました。

おばあちゃんは、次の月の4月13日に、老衰で亡くなり、おじいちゃんは、翌年の12月9日に、同じく老衰で亡くなりました。

最後に、みんなに、日頃から心がけてほしいことが3つあります。

1. 普段から助け合うこと。
自分ひとりでは生きていけないことを実感してください。
子供だけじゃなく、大人だってそうです。
助け合わないと、今日みたいな日に生きる残ることはできません。

2. そして、感謝の気持ちをもつこと。
「ありがとう」の反対語は「あたりまえ」です。
当たり前と思ったら、感謝の気持ちは起こりません。
これが当たり前と思わないこと。

3. 先生の言うことを普段から「すなおに」よく聞くこと。
先生だって人間です。素直に聞くことで人間同士の信頼関係が築けます。
今日みたいな日も、安全に避難することができます。

今日は、みんなにプレゼントがあります。
山田醤油とシールです。
先生からひとり1本と、シール1枚、もらってください。
醤油は家で使ってください。
シールは、好きな所に貼ってね。
今日は、ありがとうございました。